「エホバの証人」の夫婦

神の存在について

2年ほど前から「エホバの証人」の夫婦が、私のアパートへとやってくる。

教団への勧誘はほとんどなく、たまに聖書の勉強会や講演会の誘いの話があるくらいだ。後は聖書の言葉を引用して生きる苦しみや、亡くなった後のことについてのお話を聞く。

彼らは常に紙の聖書を持ち歩かず、タブレットに入っている電子書籍の聖書で適時検索をかけ、私に神の存在を説く。

主題は、いつも神の存在だ。神が存在するという証拠がこれだけあるという話、聖書はこれほど長く読みつがれてきた凄いものなのだとい賛美。聖書は神からの啓示であるとい主張。

それらがやんわりと会話の中で繰り返される。

 

私は哲学科に在籍していたから、宗教や神学についての領域は切っても切り離せない。個人的に西洋の宗教観にはあまり興味が持てなかったが、神の存在・宗教・信仰そのものについてずっと考えてきた。

といっても、とても抽象的なものだ。スコラ哲学やらネオプラトニズムやら神の存在証明やらには、全くと言っていいほど興味がなかった。それよりだったら、神話や民俗学が好きだった。

素朴な信仰、土着の信仰……。日々の生活を営み、脈々と形を変えながらも受け継がれてきた泥臭い信仰のほうが好ましかったのだ。

 

例えば、笠地蔵という日本人なら誰しもが知るおとぎ話がある。雪が降る中、ある老人がお地蔵様に笠を被せてあげ、その御礼としてお地蔵様から食料や金品を貰うというストーリーだ。

ここで重要なのは何かをやってあげたから、何かをもらったという原因と結果ではない。

ただ老人にあった素朴な親切心、信仰心が大切なのだ。老人はお地蔵様のルーツを知っていただろうか?

閻魔大王の化身としての地蔵菩薩や、日本の古い信仰であった道祖神の変遷についてしっていただろうか?

 

きっと問題はそんなことではない。何かをしてあげたから報われるという考え方では、神の存在が歪められてしまうと私は考える。

何故ならば、ただ祈っていたら願いが聞き届けられたならば、神は人間にとって都合の良い道具でしかなくなる。

演劇では「デウス・エクス・マキナ」という演出方法がある。機械仕掛けの神という意味だ。脚本家がどうしようもなくなり、話を強制的に神の御業で解決させてしまうという手法だ。

 

神がいることを前提にしてしまえば、結局は都合の良い存在にしかならない。神が存在するのか、それはまさに神のみぞ知る……というところだろう。

 

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宗教と信仰

なら、宗教とはなにか。信仰とはなにか。

端的に私の考えを示そう。

 

宗教の根幹にあるのは、あらゆる時代・地域の人々の小さな祈りの結晶だと思うのだ。それらが信仰となり、宗教として結実する。神の存在云々は、宗教というものに神という格を人間が観ようとしたに過ぎない。

卑近な例に表すと、企業がイメージキャラクターを作成するのに似ている。イメージキャラクターはあくまで偶像であり、企業そのものではない。同じように、神は人間が作り出したものであり、宗教そのものではない。

 

別に私は、神と呼ばれる存在を否定しようとしているわけではないのだ。いるかもしれないし、いないかもしれない。

問題は人の心のあり方が重要なのだ。

祈りを捧げるとき、人は自らの内側へと向かう。他者は消え、自らの祈りと真正面から向き合わざる負えない。

機械仕掛けの神には到底、このようなことは出来ない。どこまで行っても、都合の良い願いを引き伸ばすだけだ。

 

神・宗教・信仰と相対するとき、私達は通過点としてまずは機械仕掛けの神を克服するべきなのだ。

そこから新たな信仰や祈りが始まる。

自分の足であるき始めることが可能となるのではないか。

 

私はその「エホバの証人」の夫婦と会う度にそう感じるのである。

 

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