生活するということ

地に足の着いた生活

私達は毎日生活している。あたり前のことだと思うだろう。その通り、あたり前のことなのだ。けれども、イメージする生活とはどんなものだろうか。

朝起きて朝食を食べる。歯をみがいて、仕事や学校へ行く準備をする。日本においては、いたって普通の生活だ。仕事や学校へ行って帰って、夕食を食べて、残っている仕事や宿題を終えてから眠る。

 

だが、これは典型例でしか無い。生活とは多様なものだ。別に海外に目を向けろという話ではない。日本国内においてもホームレスはホームレスの生活が、政治家には政治家の生活が、刑務所に入れられた囚人には囚人の生活が繰り返されている。

 

――生活。

 

改めて考えてみると不思議なものだ。人間はどんなことをしたって、どんな状態にあったって、生活というものが連綿と果てしなく伸び続けている。その生を終えるまで、貧困に苦しんでいても明日の生活は繋がっている。

そして、その眼前に広がる生活からは目を背けられない。いや、それで手一杯なのだ。無軌道で、不透明で、それでいて実感として確かに存在している生活を人々は腕に抱いている。

 

働くこと、勉強すること、食べること、飲むこと……。それらは生活のほんの一部でありながらも、誰かにとっては欠かせないものとなる。

 

ここで仕事をすること、働くことについて少し考えてみたい。生活の一部でありながらも、時として生活の大部分となってしまう働くということ。それしか見えなくなってしまうこと。

過労で倒れてしまうこと、手段を選ばなくなってしまうこと、仕事以外は遠くへ過ぎ去ってしまうこと。

 

仕事が生きがいとなっているならば良いだろう。だが、そうではなかったら? がんじがらめになり、頭は疲れてまともな思考が出来なくなってしまう。

曖昧な言い方となるが、その時にその人は生活を営みながらもやや宙に浮いてしまっているのだ。実感が消え去り、働いている自分という幻影がふわりと地面を離れる。

いつしか幻影は揺らぎ、さらに浮き上がってしまう。これが限界という名ならば、危険なことだ。

『地に足の着いた生活』

この言葉は堅実性を表しているが、時には反転してしまう。限界の状況に対しても使われるべきだ。もう体も精神もボロボロならば、幻影を振り切ってしまって「地に足の着いた生活」へ戻るべきなのだ。

どれだけ稼いでいたとしても、浮き上がってしまったままではいずれ飛び上がって消えてしまう。

 

つげ義春の短編「隣の女」から考える

漫画家・つげ義春の短編漫画に「隣の女」というものがある。

主人公は貸本屋で出す漫画を書いているのだが、さっぱり売れず貧困にあえいでいる。時折、下宿先の大家から頼まれるアルバイトでどうにかしのいでいる状況だ。

アルバイトは様々だ。下宿先の他の部屋の引っ越しを手伝ったり、違法な闇米の運搬を行ったりと危ない橋も渡る。

タイトルの「隣の女」が原因となって大家は闇米売買で捕まってしまうのだが、そのエピソードは割愛させてもらおう。

要点は最後の数ページだ。

 

主人公は相変わらずに金が無い。だからいつでも口を糊するアルバイトを探している。今度のバイト先は米を入れる麻袋を補修し、再生加工する仕事だった。今で言うリサイクル屋である。

その荷運びを手伝い日銭を稼ぐ。

ある時、雇い主が主人公に訪ねた。

「津倍さん(※主人公)アンポって知ってる?」

「アンポ? なんですそれ?」

「オレも知らねんだ」

その頃反安保闘争が激化していたというが

私はそんな騒ぎもしらずにいた

(つげ義春「隣の女」298頁 ちくま文庫『大場電気鍍金工業所/やもり』収録)

※これは1960年台の安保闘争の頃の話である(筆者補足)

私はこれが生活者の実像だと思うのだ。国民は政治に関わる権利がある。しかしその実、「地に足の着いた生活」がどこまでも地続きなのが生活者というものなのである。

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デモ隊に加わるということ

先に言っておきたい。現在、ラップのリズムでデモ活動をしている団体は宙に浮いている。

「これが私の生活なのだ」

そう言われたならばしかたがないが、デモ活動を終えてから打ち上げでもして帰宅する。そこにあるのはなんだろうか?

紛れもない、生活だ。

思想と生活は相反する。現政権を打倒しようという志を持つことは、この日本においては自由だ。それこそ民主主義という思想だ。

 

ただし、有権者もデモ隊も右翼も左翼も中道も、家に変えれば生活者だ。思想と生活は尺度や程度にもよるが、どちらかに傾けば一方は転倒する。

デモを終えて、次の日に待っているのは飯を食べて仕事をする生活が待っている。

 

ギリギリのところで思想と生活を近づけることは可能だろう。だがしかし、ある一定のラインですれ違ってしまう。

 

日雇いや契約社員は日々の生活に埋没し、デモ隊は集団の中で陶酔する。我々はどこへ向かっているのだろうか。誰のための生活であり、誰のための政治活動・デモ活動なのだろうか。

 

今一度、問い直さなければならない問題のように感じる。とりあえずは、中島みゆき『世情』を聞きながら考えよう。

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